3.11から1年半あまりが経ち、主要都市部では津波の痕跡を見つけるのが難しいほど復興が進んでいる。
しかし、被害の大きかった海岸付近は、まだ生々しい爪跡が残ったままの施設もたくさんあった。
その爪跡を見ると、自然の前では人間など無力であること痛感させられる。
しかし、津波による人的被害の多くは、適切な避難によって防ぐことができるのも事実である。
このブログは、書くかどうか正直迷った。
そもそも、犠牲となった方々が19,000人にのぼる未曾有の災害現場に、よそ者が来て写真を撮るという行為自体に後ろめたさを感じた。
しかし、自らへの戒めと、防災意識向上のためにも書こうと決心したところである。
日本観測史上最大のマグニチュード9.0の地震が発生したのは、ご存知の通り2011年3月11日である。
この3.11のちょうど一年前くらいにも津波警報が発令されていた。
しかし、実際の津波の高さはそれほど高いものではなかった。
さらに、3.11の2日前の3月9日にも震度5弱の地震による津波注意報が発令され、実際に津波を観測していたものの、その高さは50cm程度であった。
そうしたなかでの3.11である。
もし自分が、渦中にいたら避難していたであろうか。と思う。
早く避難していれば、車を捨てて逃げていれば、もう少し高い建物に避難していれば・・・
でも「その時」には、あんな津波が来るとは誰も思ってなかっただろう。
「生き残った自分と、亡くなったあの人との違いって何だったのかな、そんなことを考えてしまう」
という、ある人の言葉が胸に刺さった。
地震から大津波が到達するまでの時間は比較的長かったとされている。
一番早く大津波が襲った場所でも、30分程は時間があったようだ。
難を逃れた方々にお話を伺うと、やはりこの間の行動が生死を分けたことがわかる。
被害の大きかった東松島へ行った。
仙石線の一部区間はいまだに復旧していない。
潮をかぶった松林は枯れはじめ、風が吹くたびに、根元から大きく揺れていた。
海岸に根元から折られた標識がある。
津波避難路マップの標識だった。
3.11では避難所が避難所本来の機能を果たせなかったところも多い。
そこで津波の人的被害は天災でなく、人災だという声もある。
避難所に指定されている中学校へ行ってみた。
津波はこの避難所に指定されている中学校も襲っていた。
ここでも犠牲者が出てしまったとのことである。
校庭のポールはすべてなぎ倒されている。
多くの子供、そして先生が亡くなった大川小学校へも行った。
しかし、ちょうど慰霊祭のようなものが行われており、近づけるような雰囲気ではなかった。